記紀・万葉のロマン王寺の里  聖徳太子ゆかりの達磨寺 聖徳太子の愛犬雪丸が王寺町の公式マスコットキャラクターに認定
 
 
本文へジャンプ
聖徳太子ゆかりの達磨寺 愛犬雪丸くん 雪丸が王寺町の公式マスコットキャラクターに認定
聖徳太子の愛犬雪丸くん
 聖徳太子の愛馬といえば、黒駒が有名ですが、太子には愛犬がいました。
 達磨寺の境内には、太子の愛犬「雪丸」の石像があり、雪のように白い犬で、とても賢い犬だったといいます。
 1791年(寛弘3)の「大和名所図会」には本堂東北隅に犬塚が描かれています。
 また、雪丸は達磨寺のある王寺町の観光振興にも一役買っており、王寺町商工会では雪丸グッズを売り出しています。
 日本最古の犬のペット「雪丸くん」に会いに来ませんか。お待ちしています。
リンク先
片岡山達磨寺

達磨寺
聖徳太子ゆかりの「達磨寺」と万葉集
家にあらば   妹(いも)が手纏(ま)かむ   草枕  客(たび)に臥(こ)やせる   この旅人(たびと)あわれ       上宮聖徳皇子作  推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという飢人伝説(きじんでんせつ)に基づいて開かれた達磨寺は、達磨大師の墓と伝えられる古墳の上に本堂が築かれている。
 「日本書紀」によると、聖徳太子(厩戸皇子)が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に寒さと飢えをしのぐための食物と自分の衣類とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、屍骸は消えており、衣服だけがたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子自らが刻んだ達磨像を祀ったのが、達磨寺の始まりである。
 「万葉集」には上宮聖徳皇子作として、
  家にあらば
      妹(いも)が手纏(ま)かむ
            草枕
  客(たび)に臥やせる この旅人あわれ

 後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれ、飢人の墓の地とされたこの地に達磨寺が建立された。寺院としての形態が整うのは鎌倉時代以降である。

聖徳太子
574年 聖徳太子誕生
593年 皇太子となる
(20歳)
601年 斑鳩宮を造営
(27歳)
604年 憲法十七条をつくる
(31歳)
606年 岡本宮で法華経を講讃
(33歳)
613年 片岡の道に伏せた飢え人に会い、
      食べ物と衣装を与えた。
      飢え人は聖であった。
(40歳)
614年 法華義疏をつくる
(41歳)
622年 2月22日没(49歳)
 「日本書紀」の「飢人伝説」と結びついた古墳は、達磨寺本堂の下(3号墳)、本堂の北東(1号墳・2号墳)を含め、小規模な3基の古墳がある。
 これらは6世紀末ごろに造られた古墳で、内部に横穴式石室があり、達磨寺古墳群と呼ばれている。
奈良のむかしばなし第36話(県民だより奈良2012.12月号)
聖徳太子と達磨寺
万葉集(聖徳太子作)

                    阪本桃水書
 

達磨寺山門

達磨寺本堂

愛犬雪丸像

アクセスマップ
江戸時代の達磨寺
「大和名所図会」
 1667年(寛文7年に方丈(県指定文化財)・庫裏を修理、「大和志」には正堂・方丈・九重石浮屠・伽藍神祠などがあったと記されており、「大和名所図会」にこれらの記述に合う様子が描かれている。

翡翠の涙 : 大和達磨寺異聞

箕口忠著

碧天舎, 2006.1

●内容
大和国の地主の娘・菊は、幼くして両親と死別するが、作男の彦爺や、想いを寄せる僧・俊信などの愛情に支えられ健気に生きる。奉公に出た大坂で才能を認められ、つかの間の幸せを得たある日、殺人事件に巻き込まれ、大切にしていた翡翠の石がなくなった。その石が意外なところから見つかり、事件は思わぬ展開に…。謎の翡翠石が薄倖の少女にもたらす悲しみ。第5回碧天文芸大賞・出版化奨励賞受賞。

●著者略歴

箕口/忠
1936年、大阪府大阪市西区に生まれる。神戸大学法学部卒業、大阪市役所に勤務、主として広報関係の職務につく。交通局で路面電車廃止記念事業、地下鉄五十周年記念事業を手がけ、市長室で市制百周年記念事業、「OSAKA咲AKASO」キャンペーン事業に携わる。定年退職後、阪神高速道路協会勤務を経て、現在、大阪市立芸術創造館事務長。奈良県北葛城郡河合町星和台在住。『翡翠の涙―大和達磨寺異聞』で第5回碧天舎文芸大賞・出版化奨励賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

●単行本: 143ページ

●出版社: 碧天舎 (2006/01)

●発売日: 2006/01

●商品パッケージの寸法: 19 x 13.6 x 1.6 cm
●定価:本体1000円(税別)

孝霊天皇片丘馬坂陵 (こうれいてんのうかたおかうまさかのみささぎ)
 孝霊天皇は、「古事記」「日本書紀」に記される第7代天皇(紀元前290年2月19日〜紀元前215年3月27日)。大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)大倭根子日子賦斗運命(「古事記」)
 父は孝安天皇、母は天足彦国押人命(あまてらしひこくにおしひとのみこと)の女・押媛(おしひめ、「古事記」に忍鹿比売)。
 皇后は細媛命(くわしひめのみこと、ほそひめのみこと。磯城県主大目の女)
 第一皇子は大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、孝元天皇)
 皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと 吉備津彦命)は桃太郎伝説のモデルと言われている。
 また、皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の被葬者である。
陵墓:王寺町本町三丁目 
聖徳太子ゆかりの「肩岡池」芦田池(あしだいけ)
「日本書紀」によると、聖徳太子の進言によって推古15年に「肩岡池」が築造されている。その池の候補地として、この芦田池を挙げている。
この池は歌の名所として、数々の名歌が残されている。
柿本人麻呂の歌に
 あすからは 若菜つまむと 片岡の
    あしたの原は けふぞやくめる
が残されている。

場所:王寺町本町2丁目