北村和夫のWeb自分史
大正っ子の足跡
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昭和7年天王寺師範附属小学校高等科に入学
 私は4月には天王寺師範の附属小学校の高等科に入学した。地元には遊ぶ友達は全然なかった。したがって家では弟と遊ぶことが多く、室内では将棋を使ってのいろいろな遊びをすることが多かった。

 師範の一部へ入学するには附属の高等科に入ると有利であったため、附属へ入るのに厳しい競争がある。私の場合も10倍余りの競争であった。

 その附属小学校は天王寺区河掘町にあった。阿部野橋から東へ7〜8分歩いた所である。通学は南海電車の平野線の中野から天王寺駅前行の電車で天王寺駅前まで乗り、そこから歩くのである。天王寺駅前というのは、阿部野橋の北詰すなわち天王寺公園前のところであった。また平野線というのは今はなくなったが、阪堺線(今は南海電車と別会社の阪堺電気軌道線)の恵美須町が起点で、今池で阪堺線と分岐し、上町線のあべの斎場前を経て平野本町の終点まで、今の地下鉄の谷町線のルートを走っていた軌道線である。

 天王寺駅前へはあべの斎場交差点で、住吉公園前と天王寺駅前を結ぶ上町線に乗り入れていたものである。この天王寺駅前平野間の電車は明治時代の製造のチンチン電車で手動式のブレーキの大きなハンドルが運転席の右側にあり、運転手がブレーキをかけるときは、その大きなハンドルをダイナミックに操作していた。まさに職人芸というべきものであった。110番台や恵美須町平野間の電車は大型のボギー車で110型、150型に加速性能の良い新型の160型や170型が走り、ラッシュ時には新型車は2両連結で走るようになった。昭和12年頃から乗降にドアーのない旧型車が何台かドアー付きに改造されていった。乗降口にチェーンを張るだけの旧型車は逐次減っていった。

南海平野線の電車

新型電車
新築の借家
 多分6月の終りだったかと思うが、杉本さんの借家が完成したので、そこに移った。仮住まいの家から20m位しか離れていない。いわば、ほんの目と鼻の先の所である。建てられた大工さんは北本さんといった。私は学校から帰ると殆ど毎日のように仕事をしておられるのを見に行っていて、出来上がるのが待遠しかった。

 後に日曜大工が趣味になったのもこの影響が大きいと思う。その家の裏には今川という川が流れていて、結構清流であったので、鮒などが沢山棲んでいた。又水の量もかなりあったので、ゴムの動力でスクリューが回転する船を作り走らせた。とくにその舟に鉛のおもりをいろいろ加減してつけ、潜水させたりした。丁度家の横の道に橋がかかっていて、向こう岸の堤に渡れた。その堤は俗にうるし堤と呼ばれ、大きなハゼの木が植わっていて秋に真赤に紅葉して美しかった。そのハゼの木の小枝に蛙が突き刺さっているのを見たことがある。確か祖母に「もずのいけにえ」というのだと教えてもらった。

西今川町の新築借家

 今は廃川となってしまい、代りにその川筋は散策公園にされ古い川が人工川として残されている。家の横にかかっていた橋は、今六橋と名付けられ欄干のあるしょうしゃな所になっている。 
現在の大阪市東住吉区西今川周辺
附属小学校のこと
 新築に移る頃は進学した附属小学校の生活にも慣れ、電車通学が楽しかった。クラスメートは30名で殆どが大阪市内のあちこちから市電や城東線(今の環状線)で通っていた。

 あべの橋から学校までは市電の玉造線沿いに所謂電車道を歩いた。たまに市電やバスが通る位で、今日では想像出来ない位閑散としていた。

 附属小学校は天王寺師範学校の校地の北西端にあって、本校と同じ明治時代に建てられた木造校舎であった。高等科の1年・2年とも担任は奥野朝治郎先生で、体育のお得意な先生で山野跋渉会という名前で、日曜日に六甲山や金剛山、生駒山、葛城山、信貴山、飯盛山、北摂のポンポン山、などへ連れていただいた。六甲山へ登るのは阪急の六甲道あたりから歩いて登るのだからかなり険しい坂道であった。

 放課後は時々本校の校庭の端にある砂場で幅跳びをしたり鉄棒にぶら下がったりして遊んで帰った。何しろ尋常科は各学年とも男女各40人のクラスが一組づつ、高等科は1・2年の男子組みは各30名、女子は1・2年合併組みで30名。全校で600名足らずの小規模な学校であった。そのため運動会の行事も大きな師範学校の運動場の一部を区切ってやっていた。附属時代の思い出としては、大和の談山神社へ行った遠足がある。近鉄の桜井駅からかなりの道のりを、しかもだらだら坂を上ってしんどかったことである。
百貨店の思い出
 昨今は大型のスーパーがいたるところに出来て、デパートのかげもうすくなっている。しかし、しかし、昭和初期から10年代の前半までは百貨店は何でも売っている華やかな大きな店で、親に連れてもらうことが大変嬉しかった。私のおぼえている三越百貨店やまだ長堀橋にあった高島屋百貨店では入口で靴に大きなカバーをかぶせられて、それをはいて店内を歩かねばならないのが嫌であった。中野に住むようになった頃に高島屋がナンバに移転したように思っている。今の松坂屋は天満橋にあるが、それまでは日本橋3丁目にあった。高島屋が難波のターミナルに進出したため、松坂屋は地の利が悪くなり、阪堺線の終点の恵美須町から青バスの無料バスをサービスしたこともあった。中野から天王寺駅前すなわちアベノ橋へ出るのも、恵美須町へ行くのも、今池から萩之茶屋へ出て、南海電車の本線に乗り換えて難波に出ても、3区=11銭であったので、大変便利であった。難波から戎橋筋、心斎橋筋の商店街を通り、大丸やそごう百貨店へも行けたわけである。しかし、その頃は貧しい生活をしていたので、そうさいさい百貨店へ買物に行くこともなく、ましてこどもが百貨店へ買物に行くことなどないので
、行ってもただ親の買物につい
て廻っているだけであるから、しばらくすれば退屈になってしまって、楽しいところではなかった。
高1・高2の頃の家庭生活でのいろいろ
 附属小学校の高等科へ入ったのは、師範学校の本科一部へ入るためである。その入試はまた難関で十数倍の競争であるから、母はあまり勉強しない私によく「勉強せよ」[勉強せよ」といったものである。それまで小さな坐机しかなかったので、母は私たち3人の共用机として椅子式の勉強机を買ってくれた。多分勉強してくれることを期待していたのだろう。3人が一緒に勉強すると狭かったが適当に代わり合って使っていたように思う。

 昨今のように参考書があるわけでなし、教科書を読み、要点をまとめて暗記するとか、学校で習った数学の問題をもう一度自分で解いてみるといった勉強であるから、そんなにすることはなかったのである。

 あるとき綴り方の宿題があったので、「蜘蛛が巣を作る様子」を書いて、その用紙を机の上にほうり出していた。下で遊んでから2階へ上ると、母がそれを手にして読んでいた。私は盗み見されたのに腹が立って、ひったくって破り捨てた時、母がじっと私を見つめ、悲しそうな顔つきで「上手に書いてあると思ってたのに」と言ったことがあった。作文が苦手で、劣等感をもっていたので、人に読まれることへの恥かしさと黙って読まれたことに対する反発だったと思う。
模型飛行機
 確か高2になった春休み頃だったか、模型飛行機を作って家の前の道で飛ばしたことがある。竹ひごとアルミニューム管で絵のような四角い胴体の飛行機をつくって、路上をゴム動力で滑走させて飛ばせた。地上僅か30〜40cmの位の高さまでしか浮上しなかったが、距離も20cmそこそこしか飛ばなかった。飛行機の飛ぶ原理など何も知らずに買ってきた。設計図を頼りに作っただけで、ヒゴも割りに太く、重量も結構重かったので、本物の飛行機のように地上から滑走させて飛ぶものと思っていたが、数十cmの高さに上るだけで、すぐに着地してしまった。
 結局手で持って飛ばして、やっと20mほど飛ぶ位の性能で期待外れであった。

自作の模型飛行機
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