北村和夫のWeb自分史
大正っ子の足跡
ライン
 
北村和夫書「生い立ちの記」 筆者の北村和夫
(1)生い立ち
(その1)少年期

第一章幼少の頃
   誕生
   親戚のこと
   上本町時代の父
   ラジオのこと
   小学校2年生までの遊び
   上本町での祖母の思い出
   その他もろもろのこと
     電気つくまでに帰っといでや
     丹後の地震
     上本町の家
     日常生活
     行水
第二章小学1・2年の学校生活(天王寺第六尋常小学校)
   大正15年天王寺第六尋常小学校へ入学
   中河内郡「西六郷村字箕輪」の頃
   学校は西六郷尋常高等小学校
   ふりつるべ
   秋の御大典
   にわとり
   スケート
第三章花園の頃(小学4・5・6年時代)
   昭和4年花園へ引越し
   学校生活T
   学校生活U
   学校生活V
   学校生活W
   祝祭日
   湊海岸の海水浴
   昼食
   浜先生の思い出
   花園に住んでいた頃の祖母
   修学旅行
   通学往来
   電車
   誕生日
   ラグビー場のこと
   家での友達と遊びのこと
   暴風雨
   春日湯
   初めて買ってもらった自転車
   父のこと
第四章西今川町へ移ってから(高1・高2)
   昭和7年大阪市住吉区西今川町6丁目へ
   昭和7年天王寺師範附属小学校高等科に入学
   新築の借家
   附属小学校のこと
   百貨店の思い出
   高1・高2の頃の家庭生活でのいろいろ
   模型飛行機
  大阪市出身 大正8年生まれ
天王寺第六尋常小学校入学 大正15年
西六郷尋常高等小学校
天王寺第六尋常小学校卒業
天王寺師範附属小学校高等科入学 昭和7年
天王寺師範卒業
大阪市内中学校教諭・教頭・校長歴任

大阪府藤井寺市在住
系図
大正っ子の足跡
生い立ちの記
その一少年期
第一章幼少の頃
誕生
 私は大正8年11月20日朝6時30分、大阪市天王寺区筆ヶ崎町17番地で、父福寿 母悦の長男として生れた。
 2歳上に姉純子がいたが、男の子だというので大変祝福されたそうだ。筆ヶ崎町というのは、今の桃山市民病院の南側で、生家のあたりは今市営住宅が並んでいる。
 和夫というのは、祖父が易者にみてもらったところ、この子は非常に短気な子だからというので「和夫」と名付けられたと、よく祖母が話していた。
 大正8年は約5年間も続いた第1次世界大戦が終り講和条約が次々と結ばれて世界に平和が戻りつつあった年である。日本も大正3年8月に連合国側に組して参戦し、ドイツの租借地の青島やドイツ領の南洋諸島を占領したりしたが、主戦場から遠く離れていて、いわば漁夫の利を得た格好であった。
現在の大阪市天王寺区筆ヶ崎町周辺
 2歳の冬の大正11年2月に、後に小学2年生の春まで住んでいた同じ天王寺区上本町7丁目11番地に移ったようだ。
 祖父が亡くなったのは同じ年の12月3日であるが、父や母が3輪車を買い与えるというのに「危ない」といって反対したそうである。その祖父の顔は写真では知っているが生き顔は覚えていない。ただ祖父のお葬式の時に、誰かの膝の上に抱かれて人力車に乗った記憶だけは今も瞼にくっきりと浮かんでくる。
  その頃の記憶としてはっきりしているのは、弟が生れるとき、母の入院していた天王寺の市民病院のすぐ北側を関西線の汽車が走っていたが、夕方汽車が通るのを待っていたことや病院の周りが寂しい草原であったことを覚えている。幼心にも寂しさに耐えて汽車を見ていたのであろうが、妙にその時の情景が頭に残っているのである。(※弟の生れたのは大正11年11月1日)
 しかし今も残っている奈良公園で写した写真は弟が1〜2歳の頃であるから、私は4〜5歳になっていた筈であるのに、その時の細かいことは思い出せない。ただ鹿が近くまで寄ってくるのを恐がった様子が写真からうかがえる。しかし同じ頃に写真館で祖母と姉と弟と撮った写真を見るとき、写真屋のおじさんが弟に「鳩が出ますよ。」といって注意をひいていた光景ははっきり覚えている。
 又多分その頃だと思うが、「はしか」にかかって一人2階で寝ているときに夢の中で部屋の周りをおもちゃの兵隊や車がぐるぐると回って恐かったことなどは妙に覚えているし、今宮戎で買ってもらった「俵ころがし」の玩具なども、はっきり記憶に残っている。
現在の大阪市天王寺区上本町七丁目周辺

上本町7丁目の家の付近
親戚のこと
 その頃、親戚の家に遊びに連れられたことも割りに覚えている。親戚としては今宮にあった伯母の家(伯父は大正8年4月没)難波の祖母の兄の壷井家、よく祖母がおせやんと呼んでいた。高津神社近くの家、天満にあった「おせきさん」と呼んでいた叔母の家、遠くでは、神戸の新開地にあった父方の親戚に当る惣田家などである。
 一番よく遊びに行ったのは今宮の伯母の家で、伯母は「おてるさん」と呼ばれ従姉妹に当る操さんと智恵さんがいた。私が5〜6歳のある夏に家族で訪れたときに、土産の西瓜を私が持つといって持たせてもらい、家に着くなり上りかまちに「ドスン」と置いた途端に割れてしまったことがあった。
 その今宮の家は入口がガラスのはいった開き戸になっており、入ったところにポンプのついた井戸があった。その家の所在地は広田神社の傍の広田町907番地で、戎神社も近く、南海電車の今宮戎駅のほん近くにあった。
 その頃市電がかなり通じていて、上街筋や千日前通にも市電が走っていた。今は道路が拡張され、当時の面影が微かに残っているのは椎寺町や天王寺公園あたりだけになってしまっている。
 今宮の伯母の家に行くときは上本町7丁目から福島西通行きに乗り天王寺西門で西に曲り恵美須町の次の戎神社前で降りて歩いていった。
 その頃の市電は右の図のような素朴なものだった。そして車掌さんが天井から垂れたひもを引張ると、前の運転手の頭の上近くにあるベルが「チン、チン」と鳴り、その合図でポーツと警笛を鳴らして発車するといった、今から思うと本当にのどかなものであった。
 今でも市街電車のことを「チンチン電車」と呼んでいるが、その由来は、初期の市街電車では運転台の運転手の足元に足で踏んで「チンチン」と鳴らす警笛があって、電車の接近を知らせるために「チンチン」と鳴らしたところから、そう呼ばれるようになったのだろう。
 難波の壷井の家は、浪速区新川三丁目(旧住居表示)の南海電車の難波駅の西にあった。大きな門構えの家で門屋の大きな扉の横のくぐり戸を通って出入りしたことや、大きな子(又従兄弟に当る龍夫ら)がいたことを覚えている。壷井の家は祖母の兄の壷井新右衛門の家で代書屋をやっていたそうである。
 そこへ行くときはたいてい上六から谷町9丁目、下寺町と電車道沿いに歩いて行った。谷町9丁目あたりに石屋さんが並んでいて、大きな石灯篭が並んでいた。その灯篭の前を通るときに大変こわかった。倒れてきて下敷きにならないかと心配してである。今思えばきっと関東大震災や丹後の地震直後で、親から傍にいたら倒れてきて、下敷きになって死んでしまうと云われていたからであろう。
 その途中に千日前があるが、その頃に楽天地と呼ばれた繁華な遊び場などがあって、回転木馬のようなものに乗ったような記憶がかすかにあるのだが、さだかではない。
 高津神社の近くの祖母方の親戚にもよく祖母について行った。薄暗い家でおばあさんがひとりだけおられたように思っている。祖母がよく浄瑠璃を聞きに行ったようであるが、そのあたりにやっているところがあったのかも知れない。そしてそれにもついて行ったのかも知れない。高津神社は谷町7丁目位なところを西に下ったところにあり、今でも静かな所である。
 その頃のことかと思うが、母に連れられて出かけるとき、今から少し北の四辻に差しかかったところで、急に車が曲がってきた。私は、とっさに角のお地蔵さんを祀ったところへ飛びのいて難を避けたのを見ていた母が「お地蔵さんが引張って下さった」のだと喜んだことがあった。
上本町時代の父
 私の父は小学校の先生で当時は東平野第一尋常小学校(現東平小学校)に勤めていた。父の宿直の日の夕方に母や姉と弁当を届けに行ったことが何回かあった。その学校は家から上本町筋の電車道(当時は市電の走っている道をこう呼んだ)に出て、北へ進み、上六の交差点を更に北へ300mほど行った上本町5丁目の停留所を西へ上ったところにあった。門をはいって数段階段を上ると、金網で囲った鳥のゲージがあったように思う。
 ある夏の夕方弁当を届けて家へ帰るとき、上六の交差点の角の店にオートバイがとびこんだことがあった。また、その頃千日前線の市電は上六までで、上六から東の今里の方への延長工事が行われていて、新しい線路が敷かれ、真新しい御影石の敷石が並べられていた。父は釣りが好きだったようで、海釣りにも、川釣りにも行ったので、釣道具も両方が揃っていた。自分で竿を作ったのか、あるいは修理していたのか、夜なべによく竹を削ったり、継ぎ手のところに糸を巻いて、漆を塗ったりしていた。海釣りには大阪港の突堤に行ったようで、チヌなどを釣って帰り、多いときには近所の人にもらってもらったと母から聞いた。
 何歳の時だったか定かでないが、父について母や姉と一緒に守口の方の淀川へ行ったことがあった。背の高い葦の中を歩いた記憶があるが、これが魚釣に行ったのかどうかは覚えていない。
 またあるとき父が長柄橋の堰のところで釣りをするのについて行ったことがあった。この記憶が強いのは帰り道、父と思って急ぎ足についていったところ、よその人で、あわてて振り返ると父がいたのでホッと安心したことがあったり、ちょうど天神橋6丁目(天六)から長柄橋までの市電の延長工事がほぼ完成して真新しいレールが敷かれていたそばを通って行ったためである
 父は囲碁も好きだったようだ。母に後年聞いたことであるが、父と祖父がよく碁を打っていたと言うことだ。父が天下茶屋の友人の家に碁を打ちに行くのに何回かついて行った記憶がある。どうして行ったかは全然覚えていないが、多分あべの橋まで市電に乗り南海の天王寺線で天下茶屋まで行ったのだと思う。ちょうどその家の前を天王寺線が通っていたので、待っている間に電車の通るのを見ていた記憶がある。 
ラジオのこと
 私が4〜5歳の頃に父は「鉱石ラジオ」を家で組み立て、ラジオが聞けるようになった。小さな箱にコイルとバリカンと鉱石(黄銅鉱のようなもの)が細い線でつながれてはいっていて、コイルの方はハッチを、バリカンは心棒を回して、聞こえるところ(周波数の同調点)に合わせると、その箱につないだ「レシーバー」から音が聞こえてきた。アンテナの線は電灯の電球の口金のところをクリップではさむ簡単なものであった。それでもかわるがわるレシーバーを耳にあてて、「聞こえる、聞こえる」と喜んだものである。祖母は昼の間ときどきレシーバーをつけて浪花節を聞いていたのを覚えている。
父の自作のラジオ
 当時大阪の放送局は上本町9丁目の電車道に沿ったところにあって、30m位の高さのアンテナがそびえていた。放送局が300mほどの近くであったので、割りによく聞こえたのだろうと思う。
 これも後年知ったことであるが、日本でラジオの放送が開始されたのが1920年東京の愛宕山からJOAKが、大阪は数年送れて1924〜5年に放送が始まったので、父がラジオを組み立てていたのは丁度放送の始まる頃だったわけである。
小学校2年生までの遊び
 その時代の遊びとしては、鬼ごっこ、かくれんぼ、縄とび、竹馬乗り、輪回し、こま回し、ラムネの玉あて、バイ回し、それに正月には凧あげ、羽根つき(姉がおったので)などが主だったものである。もちろん今の子供の遊びと殆ど変わらない。
 ただ、小学3〜4年にもなった大きな子が4〜5歳位の弟や妹の面倒を見ながら遊ぶ場合に、大勢で遊ぶ「通りやんせ」「かごめかごめ」「はないちもんめ」といったいわば集団遊戯のような遊びを前の路地でしていた。姉と一緒に遊んでくれた姉の友達の今永さんや乙田さんの名前は頭に残っている。
 6〜7歳、つまり小学校1年・2年になると、男同士で遊ぶことが多くなり、近所の同じ年の子たちと「ラムネの玉のあてっこ」や「バイ回し」、「こまを回して手のひらにのせての鬼ごっこ」などの遊び、夏には近くの広っぱ(広い空地のこと)で、「ぶり(40cm位の糸の両端に油紙で包んだ小石をくくりつけたもの)を投げ上げて「おにやんま」を糸にからませてとるような遊びをよくしたものである。
 その広っぱに大きな椋の木があって、黒い実がなっていたが、その実をとってきて、シャボンを作り、シャボン玉遊びをよくした。
 又私は自転車がなかったが、近所の子の自転車を借りて乗っていた。そしてだんだん慣れて電車道まで走りに行くようになった。そのときはまさに得意満面といった気分だったと思うが、さっそうといった様子が思い出される。
 その遊び友達の中に、新川という子がいて、よくその家に遊びに行った。塀をめぐらした門構えのある大きな家で女中さんもいた。大きな応接間があり、そこに電話がおいてあった。当時の電話は交換式で受話器を外すと交換手が出て、相手番号を告げると相手とつながり通話できる仕組みのようであった。その子はときどき受話器を上げて交換手が出ると「アホ」というような事を言ってふざけていた。ある日遊びに行ったときに、皮むきまんじゅうを出してくれたが、よそで何か出されたら、「けっこうです。」というんやでと教えられていたので、何べんも「食べなさい」と言われても「もう結構です。」と断って食べなかった。しかし本当は欲しかったので、何時までもその時の光景が浮かんで、何故「いただきます。」といって、食べなかったのかと残念に思ったものである。
 屋外の遊びのひとつに「ラムネ」があった。今で言うビー玉で当てっこをして、当てたら相手の玉を取り、当てられたら取られるのである。ズボンや上着の横ポケットに入れて走るとジャラ・ジャラと音がした。道の両端の溝は、その頃は底が丸くなった瓦が敷いてあった。溝の中を転がせて当てたり、道にあるときは玉を狙ってあてて、当ればその玉をもらったのである。狙いを定めて投げ、カチット当ったときの快感がたまらない。

通りやんせ

かごめ

お天気占い

おにやんまとり

ラムネ取り
上本町での祖母の思い出
 祖母は大変信心深かった。朝洗面をすますと門へ出て、おてんとうさま(御天道様=昔の人は太陽のことをこう呼んでいた)に向かって拍手を打ったあと合掌して拝んでいた。又仏さんには毎日ご飯を供え、手をたたいて拝むといった具合である。
 路地を出た表通りは、お大師道と呼ばれていて、毎月21日のお大師の日には衣類・雑貨・日用品・駄菓子・おもちゃなどを売る露店が立て並び、四天王寺へお詣りする人たちがぞろぞろ歩いて、大変賑わっていた。このお大師道は上本町筋に並行していて、四天王寺の東門の方へ続いていた。ただこのお大師道がどのあたりから始まっていたのかはよく知らないが、大軌百貨店の横あたりから露店が並んでいたように思う。
 私も毎月21日には祖母に連れられて、このお大師道を歩いて、「天王寺さん」に参詣した。俗に「亀の池」と呼ばれていた池には沢山の亀がいた。岩の上で甲羅干しをしたり、参詣者が投げ入れた「麩」にぱくついているものなど、おびただしい数であった。 
その他もろもろのこと
電気つくまでに帰っといでや
 その頃の電気の利用は、普通の家では、夕方つまり日没の時間に電灯会社がスイッチを入れると、各家の電灯が一斉にともり、朝夜が明けて明るくなり始めると消える「定額灯」であった。
 もちろん、昼にもともる電気をひいている家もあって、これを私たちは「昼線」と呼んでいた。多分電熱器や扇風機などを使っていた家では昼線を引いていたのだと思う。
 私たちが外へ遊びに行くとき、「電気つくまでに帰っといでや」と言われたのは、ちょうど暗くなるのが電気のつく時間だからであった。だから私たち子どもも遊びに夢中になって「門灯」などがともると、あわてて「もうやんぴ」といって急いで家へ帰ったものである。
丹後の地震
 1年生の頃、夕食を食べているときに急にグラグラと家が揺れた。祖母や母らと表に裸足で飛び出したが、父だけはお膳の前に座ったままだった。その時の空がいつもと違って妙に黄色っぽい夕焼けしていたので不気味だった。父が落ち着いているのに感心した。
 父だけがあわてずに落ち着いていたことが、それから後の地震のたびに思い出された。
 その日の夕食のおかずがえんどう豆だったこともなぜか妙に印象に残っている。
◎北但馬地震 1925年(大正14年)5月23日

◎丹後地震 1927年(昭和2年)3月7日 M7.5
上本町の家
 上本町の家は七丁目筋からお大師道を南へ50m余りいった所の路地を西へ入った突当りから4軒並んだ長屋の向かって左から2軒目で間口が2間半、奥行が6〜7間の2階建で、玄関の幅は4尺位で、通り庭と呼ばれた裏口まで通り抜けている土間があって、その中ほど位の所にカマドや流しなどが並び、裏口に近い所に明かりとりの天窓がつけられていた。
 祖母はカマドのことをヘッツイさんと呼んでいたが長い煙突がついていて、薪を燃やして煮炊きをするのである。記憶ではその頃から普及した石油コンロも使っていたように思う。
 玄関の間の次の間には、神棚があって白木の社に岩清水八幡のお札が祀られていた。父が煙草に断つ「願」をかけたのであろう「朝日」のたばこがその神棚にのっていた。岩清水八幡宮の白い矢羽根ものっていた。牛の日になると、お餅屋さんが赤く塗った重ね餅を何組か長方形の木箱に入れて届けてくれていた。私は供えた後のおさがりを焼いてもらって食べるのが嬉しかった。
 奥の六畳の間に仏壇があって、毎月お坊さんが月参りに来られ、お経を上げておられた。お坊さんが帰られるときに、祖母が黒い小さなお盆に「お布施」をのせて渡していた。
家の付近図
間取り
日常生活
 夏になると「金魚エエ 金魚」と売り声をあげながら、金魚の泳いでいる小さなタライを天秤棒でかついでくる金魚屋、「イワシーやイワシ」と威勢のよい声で鰯を売りに来る人、「ポービーバー」とラッパを鳴らして自転車の荷台に金時豆や昆布巻きなどの惣菜を売りに来た人たちをよく見うけた。その呼び声が耳によみがえって来る。
 物売りといえば大根や人参、ゴボウ、カボチャなどの野菜や果物などは大八車に積んで売りに回って来た。八百屋ダッセと呼びかけると、お母さんたちが車の回りに集まって来て買っておられた記憶がかすかに残っている。
 よく母や祖母が「公設」へ行って来たなどと言っていたが、公設市場のことで、売りに来る野菜以外はそこまで買いに行っていたのだと思う。
 家の近くには商店は一つもなかったが、七丁目筋や組2号の方には菓子屋や缶詰などの食料品店、肉屋、昆布屋とかがあったのを覚えている。
 母が何時から何故勤めるようになったのか母から聞かなかったので私には定かでないが、思うに父の病気の先行きを心配して用意のために勤めるようになったのではないかと思っている。多分大正12〜3年のことと思う。
 母が勤めをもっていたので、炊事洗濯など家事一切を祖母がしていた。その頃上本町六丁目の大軌電車の終点にターミナル駅舎と共に三笠屋百貨店が出来、地階に食料品売場が出来た。買物に行ったのか、単に電車を見に連れてもらったのか、祖母と上六までよく行った。家から200m位の所であった。ときには弟が祖母の背中に負われていたこともあったように思う。駅の南側の柵のところから発着する電車がよく見えた。
 当時は今のように家庭風呂がなく、銭湯(公衆浴場)へ行くのが普通であった。風呂屋(子どもの頃銭湯のことをこう呼んだ)は七丁目筋にあった。大抵は母らと行ったが父と行ったこともあった。その七丁目筋には月に2〜3回夜店が出た。時には風呂の帰りに、夜店をのぞいたこともあった。夏の夜店には赤いほうづきが売られていた。姉や近所の女の子が買ってもらったほうづきの実からつまようじを使って中味をほじくり出した後の袋を口に含ませて鳴らしたのを覚えている。 
行水
 行水(ぎょうずい)というのは大きなたらいにお湯を入れて、その中で身体を洗うのである。当時はどこの家にも洗濯用のたらいの他に大型の行水用のたらいがおいてあった。夕方になると子どもは行水をさしてもらい、浴衣を着せてもらって、縁台で涼みながら又遊んだものである。
第二章 小学1・2年の学校生活(天王寺第六尋常小学校)
大正15年天王寺第六尋常小学校へ入学
 小学校へ入学したのは大正15年4月である。入学式などは何も覚えていないが、い組で担任の先生は上原先生と言った。父のような年配でヒゲを生やした背の高い先生であった。そして教室が確か職員室の隣であったようにも思うが定かではなく、その他のことは殆ど思い出せない。石板といって枠に黒くてうすい石の板をはめたものに「ろう石」といって鉛筆位の細い白い石で石板に字を書いたり、数字を書いた。又上原先生は字が上手で筆を使って書き方を習ったのを覚えている。
 2年生は澤崎勉先生が担任で、この方も父と同じ年頃だったのだろうか、丸刈りのごま塩頭であったような記憶がある。教室は南東の角の2階で、すごく広かったように思う。よく落し物のゴムボールを両手でひねって、ポーンと割られた光景が目に残っている。
 ある日の放課後、当番の者7・8人で掃除をしているときに、ピーと笛を鳴らして焼きいも屋が車をひいて教室の真下のところへやって来た。先生は誰かにいもを買いに行かされ、掃除の後でストーブを囲んで皆で食べたこともあった。
 私の家から学校までは300〜400mで、昼食は家に食べに帰った。弁当を持って来ている子もいたようだが、近くの子は家に帰って食べるのが普通だった。1年生はもちろん2年生でも午後の勉強のある日は少なかったのだろうが・・・・。澤崎先生は父が小学校の先生であることを知っておられたからだろうが、時々ニコニコしながら父のことを尋ねられた。ほんとうに優しい感じの先生であった。

天王寺第六尋常小学校

教室風景
学芸会
 その2年生の3学期のことだと思うが、学芸会でひと口ばなしをしたことがある。確か牛はいつもよだれをだしているが、あれは皆赤ちゃんだからでしょうか?・・・・・と言ったはなしだったように思う。
 また文集に作文を載せてもらったことがある。もうひとつ、これは1年のときだったのかも知れないが、小便所で押されて滑って服を汚し、泣いて家へ走って帰ったことがあった。
 家から学校への道の途中に上宮中学(今の上宮高校)があった。俗に坊主学校と子どもの間で呼んでいた。学校へ通うときはこの上宮中学の黒い塀ぞいの道を通ると近かったが、人通りのない寂しい道だったので、少し東寄りの家並みの続いた道を通っていた。学校のほん少し手前に赤煉瓦を敷いた道があり、そのあたりに尾上さんという父の友人の家があって、時々お会いした時にピョコンとおじぎをしたことを思い出す。
中河内郡「西六郷村字箕輪」の頃
昭和3年中河内郡西六郷村字箕輪へ宿替え
 昭和3年の3月、小学校2年生の終りに中河内郡西六郷村字箕輪へ宿替えした。当時は今のように引越しとは言わず、宿替えといっていた。
 当時はまだ人力車が街を駆け回っていた時代で、タクシーやトラックを見かけることは珍しく、荷物の運搬はもっぱら馬力や牛車に頼っていた。つまり木製の大型の四輪荷車を馬で引かせたのが馬力、牛に引かせているのが牛車である。その宿替えの日に大きな竹篭を積んだ牛車がやってきた。大した家財もなく、タンス2竿、本箱が2つと水屋に仏壇、その他にふとん袋が2〜3個、そして梱や支那かばんが主なもので、他の小さな物はその大きな竹篭につめていたように思う。道路は今のように舗装されていないので凸凹の砂利道をガラガラと音を立てながら進んで行った。

箕輪へ宿替え
箕輪の家
 箕輪の家は古い農家の空き家で父の病気療養のために借りたものである。母から聞いたのだが、大気安静療法と言って夜も戸や障子を開け放して自然のきれいな空気を吸い安静にして結核を治そうという治療である。
 そのあたりは農家ばかりで少し南の横枕・本庄あたりに少し店屋さんがあったように思う。それまで住んでいた上本町七丁目の4軒長屋の家と違って土塀に囲まれた家の回りに庭があり、塀ぞいにいろいろな大きな木が植わっていた。

箕輪の家
別棟の納屋
 又家の後に別棟の納屋があってその軒下に米挽き場があり、納屋の中も広々としていた。中庭に出たところに井戸があり、その後方、納屋の東側にも別棟の便所が建っていた。その横あたりから隣家に通ずる木戸があったように思う。
箕輪の別棟
水車
 その木戸を出たところに横田という大工さんの家があった。ほんとうに大工さんだったかよく知らないが、祖母や母がそう呼んでいた。ときどきそこの風呂に入れてもらったこともある。
 その家は田畑も作っておられたので6月頃に用水路から田に水をくみ上げるために、水車がかけてあった。何度かその田んぼについていって水車をふんだ。身体が小さいので水車に上るのも大変だったし、水車を廻すのも大変だった。横田さん夫婦は父や母より年上だったと思うが良く可愛がってもらった。

田んぼの水車
箕輪の生活
 当時お米は俵で買っていた。「ごう」という30糎位の一方を針に削った丸竹を俵に差し込んで、玄米を取り出し、5升位づつだっただろうか、納屋の横の石臼に入れて、足踏み式の米挽きで白くなるまでゴトンゴトンと挽いた。横木を足で踏むと秤が持ち上がる。踏んだ足の力をゆるめると秤が落ちて石臼の中の玄米を挽くのである。時々祖母から「和夫、お米ついて」と言われて、踏んだが、足の力だけではダメで、体重をかけるようにして力を入れなければ挽けない。「あと何ぼ踏むのん?」とよく祖母に聞いたものである。
 家の東側に屋根に届く高さほどの大きな槙の木があって、濃い赤紫色の実がなっていた。木によく登ってその実を取るのが面白く、甘くて美味しかった。夏みかんの木もあって、黄色い大きな実をつけていたが、酸っぱくておいしくなかった
 南側の縁の端に、十姉妹の大きな篭が重ねておいてあった。餌に粟の実をやり、毎日菜っ葉をやり、水をかけるなど、皆で世話していたが、ある日急に2羽がいなくなった。「どうしたのだろう?」と心配していた。その夜バタバタバタと羽ばたく音に母が急いでカゴを見に行くと縄のようなものが篭の上にかかっていた。母がそれに手をかけたとたん蛇であることが分かって、悲鳴をあげたことがあった。前の晩にいなくなったわけもはっきりした。
 大気安静療法のために、わざわざ移ってきたのだが、その夏頃(昭和3年)には、父は蛍ヶ池の病院へ入院した。恐らく発熱や喀血が続いたのだと思うが、母や祖母は父の病室に近づけなかったので、詳しくは知らない。したがって箕輪では父と何かしたような思い出は皆無で、いつのことだったか蜂に刺されて痛がっているときに、「小便タゴに手を突っ込んでこい!!」と言われたことが耳に残っている。
 移って暫くした5月の半ば頃だったろうか、お向かいの農家へえんどうの皮むきに姉と一緒に行ったことがある。近所の子も2〜3人来ていた。さやを割って身を出して、ザルに入れていくのであるが、力がないためか、コツが悪いためか、一さやむくのに時間がかかり、姉らのザルには豆がドンドンたまるのに、自分のザルにはいっこうにたまらず、情けなかったことを憶えている。お駄賃をいくらもらったかも覚えていないが、一升で、一銭位もらったのだろうか。 
現在の東大阪市箕輪の周辺
学校は西六郷尋常高等小学校
 学校は西六郷尋常高等小学校(今の弥生小学校)で隣の字の本庄にあった。平屋建の校舎が2棟位しかない小さな学校だった。3年生の自分の学級は男女合わせて三十数名、各学年とも一組で尋常科6組と高等科を合わせて8組しかなかったように思っている。担任の先生は大長その先生で丸顔で黒いふちのめがねをかけておられた若い女の先生であった。女生徒の大部分は着物を着ていたように思う。
 毎朝全校の生徒が集まって朝礼をする。ときどき生徒の朗読がある。ある日(内容から見て10月頃か)読み方の本(当時は国語のことをこういっていた)の富士山の課を西山厚君と二人で対話形式の朗読をした。西山君が兄貴役、私が弟役、「兄さん、富士山はもう雪で真白でしょうネ」と言うと、兄貴役が「何しろ、1万2千5百尺もあるからネ」・・・・尺貫法で表現していた時代である。
 よく遊んだ友達に、この西山ともう一人お寺さんの息子の西村というのがいた。彼は三つ口の手術をしたあとがあったように思う。一番よくやった遊びは地面に棒切れで2m×3m位の長方形をかき、さらにそれを6つに仕切り1・2・3・4・5・6と番号をつけて、順番に玉を蹴り入れてゆく。これに使う蹴り玉は割れ瓦を6〜7糎になるように金槌を使って、欠いて行き、あと、セメントのたたきなどでゴシゴシと磨いて作ったものであった。
 土瓦は何回かほったり、蹴ったりしているうちに割れてしまうが、鉛色に光った新しい瓦だとほり投げるとシャリンというような金属音がしてなかなか割れなかったので、それを拾いにあちこち探しに行ったものである。

西六郷尋常小学校の朝礼

玉蹴り遊び
ふりつるべ
 水は庭の井戸から汲むのである。朝、顔を洗うときや汚れた手や足を洗うときに、ふりつるべで水を汲むのだが、井戸に投げ入れて水面に浮かんでいるつるべを縄でしゃくってひっくり返すようにし、水を入れ縄をたぐって汲み上げるのである。初めはうまくつるべが返らなかったが、だんだん慣れるとうまくなり、つるべを返して水を汲むのが面白かった。
秋の御大典
 秋祭りの頃だっただろうか、横枕の方の広場で相撲があったのを横田のおじさんに連れてもらって見に行った記憶がある。同じ秋の頃に昭和天皇の即位の礼が行われ、色とりどりに綺麗に飾られた屋台が村の中を引き廻されたのを覚えている。確か御大典と言っていたように思う。屋台を引いたときだったのだろうか、「奉祝万歳万歳エライヤチャナ」というような、「掛声」というか「囃声」というのか音頭とりのあとについて、はやしたてながら夕暮まで村の中を引張っていた。
にわとり
 庭が広かったので、ニワトリを十数羽も飼っていた。井戸端の近くに金網を張った鶏舎があった。多分父が作ったのだと思う。周りにイタチ除けのためアワビの貝殻が幾つもぶら下げてあった。餌はハコベや菜っ葉を刻み糠やフスマを混ぜて、水で練ったものが主で、その他に小米(こごめ)といって米の割れたものもやっていた。秋に、イナゴを取ってきて、熱湯に通し、それをむしろに広げて乾かして作った餌をやることもあった。木綿針に長い糸を通したのを持って、田んぼのあぜ道に入り、つかまえたイナゴを糸に通していくのである。その頃は今のように農薬を使わないので、田んぼにイナゴはつきもので、たくさん取れた。
スケート
 その他に強く印象に残っていることの一つに、弟のスケートをこわして叱られたことがある。その頃こどもの遊びの乗り物といえば、三輪車とスケートが主なものであった。普通のスケートは片足をスケートの台に乗せ、片足で地面をけって進むのである。母が弟に買ってやった台に乗って、台についているペダルを踏んで進ませる仕掛けになっていた。そのペダルを折ってしまったのである。今思えば欠陥商品だったのだろうが、壊れたショックの上、叱られたことが重なって、強烈な印象となって心に残っている。
 便所は少し離れた所にあった。ある日弟が入っているときに竹の棒を戸の下からさしこんで「蛇や」と言っておどすと、弟があわてて用足し半ばで飛び出してきた。面白半分にしたとはいえ、兄貴らしからぬことをしたものである。
第三章 花園の頃(小学4・5・6年時代)
昭和4年花園へ引越し
 3年生の終りに近い、昭和4年2月の年越の日に当時の中河内郡英田村字吉田1003番地に引越しした。今の近鉄電車花園駅から北東へ500m位のところにあった。
 母はその頃鶴橋第一尋常小学校へ勤めていた。箕輪から若江岩田駅まで約40分歩き、そこから鶴橋まで大軌電車に乗り、学校へと通っていた。その頃はまだ洋装も普及していなっかたので、母は袴姿に下駄履きで40分の道のりを歩いていたのだから大変だったに違いない。新しい家から花園駅までは7〜8分の距離である。花園へ引越ししてきたのはその辺に理由があったのだろうか?、あるいは私と姉の教育のことだったのかも知れないが・・・・。
 家の前はおよそ4m位の幅で、その向こう崖で2mほど低くなり、少し草原があって、その先は一面水田が続き、500m程の所を大軌電車の奈良線が通っていて、時折電車が走るのが見えた。
 引っ越した日の翌日だったのだろう、私と姉は母に連れられて、1・2年と在学していた天王寺第六尋常小学校へ入学手続きに行った。職員室の前の廊下で待っているとき、顔なじみの子と視線があうのか恥かしくてうつむきかげんで待っていたのを思い出す。姉の友達もつぎつぎ寄って来た中によく知っている子も何人かいた。その日の帰りは、まだ馴れないので元の家の隣家の高木さんの家で母が迎えに来るのを待っていて、キツネうどんをよばれた。
 その日から3年の終りまで2ヶ月足らずの間の記憶は余りないが、毎朝姉と一緒に通学し、帰りは一人で帰っていたように思う。
 

花園の家

花園の家の周辺
現在の東大阪市吉田周辺
学校生活T
 4年生になって、担任の先生は浜順二先生になった。本館の木造校舎の2階で、廊下側が鉄筋校舎に続くところにあったので、少し薄暗い教室であった。「読み方」で「電気の世の中」や「小さなねじ」や「唖の少女」などの課が強く印象に残っている。浜先生は理科が得意だったのかよく科学の話しをして下さった。確か東京の物理学校へ入学すべく勉強したといった話しも聞いたことがある。浜松工専の高柳博士が電送映画(テレビジョン)の研究をされているという話しやアメリカではほこり叩きでほこりを払うような掃除でなく、真空掃除機と言って、ゴミを吸い込んでしまう衛生的な掃除をしているといった具合である。
 その他で強く印象に残っていることは毎年夏になると校庭によしずが張られ、その下にいると涼しかったこと、校舎の南東の隅に理科教室があって、理科の時間にはその教室で勉強した。又鍛錬遠足といって春秋の電車で郊外へ行く遠足とは別に、歩いて大和川や北畠神社や枚岡公園に行く遠足があった。
学校生活U
 5年生になると鉄筋校舎の2Fの教室にかわった。4年生と同じく「い組」であった。「は組」は女子組で、「ろ組」は混成である。宿題を忘れたときよく女子組である「は組」の後に立たされることがあって、恥かしくて辛かった。
 4年であったか、5年であったかちょっとはっきりしないが、放課後野球の練習があった。友達の多くはグローブやミットを持っていたが、私は持っていなかった。それでも学校のグローブを借りてやっていたのだと思う。あるときバッターの順番が来た。勢い込んで振った途端手からバットがはなれてバットが飛んだ。幸い誰にも当らなかったが、浜先生にきつく叱られた。友達は家の近くで友達同士で練習したり遊んだりしていたと思う。私はそんな機会がなかったので、選手にはなれず、だんだん見ていることが多くなった。そんなある日のこと、名前は忘れたが、友達の一人が振り回したバットが右頬に当って口から血が出た。衛生室(当時はこうよんでいた)で治療してもらい、休んでいる所へ母が来た。驚かれた浜先生が連絡をとられたのだろう。しかし、右頬の内側が切れただけだったので、母も安心した様子だった。
学校生活V
運動会
 今と同じように秋には運動会が行われ、徒競争や綱引き、ダンス、騎馬戦など盛り沢山の演技があった。私はどの年も一位とまではいかなかったが、2等か3等には入賞していた。走るのはまずまず速い方であったのだろう。
 6年生のとき藤井寺球場(昭和3年にできた)で天王寺区の連合運動会があり、私はドッジボール投げの選手として出場した。しかし固くなってしまってうまく投げられず、入賞は出来なかった。
 姉が6年生のときに従軍看護婦の歌の行進曲に合わせて運動場をたてよこ、斜めに行進したのが妙に記憶に残っているのは、あの哀愁を含んだ曲と詩にあるのかも知れない。    
運動会の日に歌った「運動会の歌」は次のような歌詞であった。
1.地高く 気澄める 龍南の丘
  勇名沖せり 天王寺第六校の
  新生気鋭 集まり来る千余の健児
  愉快 愉快 ああ愉快
2.硝煙 渦巻き 筒音 響き
  血潮わき立ち 胸はうなれり
  百余の競技 漸く 終り
  満ちし喜び 来ん年の日
  勝ってしめよ兜の緒
  勝ってしめよ兜の緒 
音楽
 音楽は当時は「唱歌」と呼ばれ「小学唱歌」を歌うだけで器楽は全然なかった。5年生であったか、それとも6年生だったか定かでないが、島野という色の白い袴姿の若い綺麗な女の先生に習ったことがある。やんちゃな奴がいてしゃべったり、いたずらをするのを先生が注意されても聞こうとしないので、時々浜先生が見に来られ、座席の後に立ってたのを覚えている。その頃音楽の特別教室はまだなかって、講堂の前の方の一角にピアノと黒板が置かれ、長椅子が何脚か並べられた場所で習っていた。 
学校生活W
好きな科目
 私の好きな科目は、工作であった。6年生頃には木製の木箱、銅線を亀甲型に編んだもち焼網、鉄火箸(鉄線を使って作る)などを作ったのを覚えている。図画は得意ではなかったが、写生が多く楽しく画いていたように思う。校庭から校舎を写生したり、屋上から街を写生したこともあった。その屋上からの写生で、近くの家から遠くまで重なって見えている屋根を画いたことがあった。画き終わってから教室へ戻って作品の批評を先生がされたとき、この画は面白いが定木を使っているのかよくないと言われた。私は定木など使っていなかったのでひどくくやしかったのを覚えている。その図画の先生は鷹本聡郎先生で工作の田口貞雄先生のようにその科目だけ教えに来ておられた。
木製の本立て
受験
 4年生以後は、学級の役員は選挙であった。大体級長とか副級長になるのは伊藤彦太郎とか細谷、岡林、木南、覚野に決まっていた。その他に列長というのが4列になっていたので、4人あった。私は殆ど毎年毎学期列長に選ばれていて、「列長に命ず」と書かれた小さな賞書をもらった。
 五年・六年になるといわゆる受験のための特別学習が放課後にあった。受験競争はすでに昭和の初めから始まっていたのである。したがって正規の時間でも教科書以外の問題を課せられることがあった。又前もってあてられた問題を予め休み時間に小黒板に解答を書いておいて、授業が始まるとそれについて先生が批評されるといった形式のときもあった。その小黒板は厚いボール紙で作ったもので放課後に先生と一緒に黒褐色の染料を刷毛で塗って作ったのであった。確か10枚位はあったと思う。
 私は算数は好きな方であった。特に計算は得意で暗算が早かった。使っていた教科書は日頃やる勉強の教科書より一回り小さい型であった。その教科書には先生用に解き方などの解説の書いた教師用があった。母がその教師用を用意してくれたので助かったことを覚えている。参考書も私は姉の使ったのを見ていて特に買ってもらった記憶がない。友達が「伸ばす読み方の新研究」といった参考書を持っていて、大意とか文段のまとめとか語句のことなど調べてきているので皆よく知っている。私は調べてないので、友達の発表や先生の説明を聞いて覚えるといった具合であった。ただ姉の使っていた理科の参考書はよく見て行ったので自信をもって発表できた。
 六年生になると放課後遅くまで残って受ける補修もあったが、私は家が遠かったので補修は受けなかった。当時補修はしてはいけないことになっていたので、若し役所から調べに来たときは下靴をもって裏口の方からかくれて帰るようにといった注意があり、放課後は下駄箱の下駄を教室へもって上らされていた。
 当時の中学校への入学試験の制度のくわしいことは知らないが、いわゆる名門校への入学は非常に難しかったようだが、高津中学、天王寺中学、天王寺商業、都島工業などの名門校へ進学したものが多かった。私は天王寺師範学校の附属の高等科に入学したが、他の友達は勿論、私自身もどんな程度の学校かよく知らなかった。ただ卒業式の少し前だったか、後のクラス会のときだったか、浜先生が天王寺の附属はかくかくしかじかの大変難しい学校だということを皆に紹介して下さったのを覚えている。
祝祭日
 当時四大節と言われたのは、元日の四方拝、2月11日の紀元節、4月29日の天長節、11月3日の明治節のことで、これらの日に学校で式があったので、皆綺麗な服を着て登校した。
 式ではご真影といって天皇と皇后の写真を飾った奉安庫が講堂の正面にあって、皆が最敬礼する中で開かれ、次に校長先生がおもむろに教育勅語を読み上げる。これを教育勅語の奉読(ほうどく)といって全員が頭を下げて聞き、そのあと、教育勅語の奉答歌を斉唱する。そして校長先生の式についてのお話があり、それが終わると、それぞれの式の歌を歌い、最後に大阪市歌を歌って閉式となるのであった。
 式の日は授業がないのと式のあとで紅白のまんじゅうがもらえるのが楽しみであった。また式の日にはきれいな服を着せてもらえることも嬉しいことであった。
 四大節は国の定めた祝日でこの他に祝日と呼ばれる国のお祭りの行われる日があった。この祭日の日は学校が休みになるのが嬉しかった。
湊海岸の海水浴
 4年生から毎年7月になると、堺の湊浜へ、学校から海水浴に行った。浴衣着で下駄履きという恰好で水着(まわし)やタオルと弁当を長い紐のついた袋に入れて、肩からぶら下げてゆくのである。上本町8丁目から市電で阿部野橋へゆき、天王寺駅から南海電車で天下茶屋経由で湊まで行き、そこから7・8分松林の間を歩くと海辺に出る。海岸にそってヨシズを張った脱衣場があって、その中で水着に着替え、衣類は袋に入れてかけておく。砂浜にひろがって準備体操をしたあと、20分位づつ3回位入水して練習した。浜は遠浅であったが、潮の満ち干の時間の関係で急に深くなっていることもあった。その頃はまず平泳ぎを覚えるために砂浜に腹ばいになって、毎日手足を動かす練習をした。そのあと自由に泳ぐ練習をしたが、4年生のときも、5年生のときも泳ぐところまでゆかなかった。
港浜海水浴場
 そのときに、浜先生に抱きかかえられて背の立たない所まで連れてゆかれて海にほうりこまれた。それこそ死に物狂いで岸に向かって泳いだときに、初めて泳ぐコツが会得できて、それから泳げるようになった。毎日、終わると井戸水で身体を洗って、着物に着替え、そのあと松林で昼食を食べて帰るのである。往復の電車に乗るのが楽しかったし、又学校まで帰るとアメ湯が用意されていて、それをもらうのがとても楽しみだった。 
昼食
 5年・6年になると、土曜日以外は午後の授業があったので、弁当を作ってもらって持ってゆくのが普通であった。しかし、時々パンを買って食べることがあった。学校から100mほど離れた上本町8丁目筋の中程にあったパン屋まで友達と競争するように走って買いに行った。
 パンは好物で弁当以外におやつとして食べることも多かった。その頃のパン屋は、マルキパン、木村屋パンのチェーンストアが多かったように思う。そしてパンの種類は、アンパン、ウズマキパン、ジャムパン、クリームパンなどの菓子パンが普通で、イモパンやあんきり、後にはゼリーパンやむしパンなどもできていた。
浜先生の思い出
 4年生で初めて担任していただき、6年生まで3年間お世話になったので、小学校の恩師の中で最も強い印象があり、又一番よく感化を受けた先生である。
 今思えば先生が25〜26歳の頃ではなかったかと思うが、背が高く、すらっとされていて、優しい感じの中に威厳が備わっていた。
 小学校だから全教科を担任の先生から教わるのであるが、先にも触れたように唱歌と図画と手工は学年によって他の先生に教わったこともあった。
 今と違ってテレビはもちろんのこと、ラジオさえ余り普及していない時代である。本といってもそんなに買ってもらえない時だったので、学校で先生からいろいろ教わることが、知識の吸収源の全てと言ってもいい位であった。いろいろな科目の中で、教科書に書かれていないことを話されたときには、一心にその話しを聞いたものである。
 先生は最初東京の物理学校へ入学しようと思って勉強されていたこと、入学試験の身体検査で合格できなかったことなど、話していただいたことがあった。その物理学校は非常に難しいということも聞いた。先生が理科にくわしかったのもその方の勉強をされていたためだろう。酸素や水素の発生の実験をさせてもらったりして理科は一番興味があった。
 ワシントン条約で時事問題もよく話していただいた。米英日の戦勝比率を5:5:3の比率を押し付けられたことを聞いて腹立たしかった。又日本は日清戦争以来ほぼ10年毎に戦争しているが、これからも10年毎位に戦争があるかも知れないといった話しもあった。
 昭和6年の満州事変に続いて、昭和7年の上海事変に始まり、それが日支事変に続いていった。昭和16年に始まった第2次世界大戦は将に先生の言われた「十年毎の戦争」であった。
 その他いろいろ思い出される中で、高柳博士がテレビジョンを研究されていること、石油の埋蔵量があと20年で枯渇するといったお話し、梅毒という病気の恐しさ、尼港事件で居留民や守備隊がバルチザンによって全員虐殺されたこと、その虐殺の仕方は人間の両足を別々の馬に綱でつないで馬に鞭を当てて股さきにしたり、女の陰部に丸太を突っ込んだといった恐ろしい話しまで聞かされた。(百科事典でも触れていない)
 地理の時間には白地図に地勢図や鉄道図をよく書かされたが、後に非常に役立った。小学校の地図は非常に簡単だったので、友人の中には中学校で使うくわしい地図帳を学校へもって来ている者があった。そして例えば白根山とか三国岳といった山が、あちこちの国にあるのを探し当てるような遊びをしたことがあった。
 ワシントン条約で日英米の戦艦の保有力を3:5:5に決めた。ロシアはスターリンが政権をにぎり、5ヶ年計画を立てて国力の充実を計っていることが、ゲ・ペ・ウという秘密警察があって、監視しているとかいった話もされた。
 又世界の石油はあと10年位で枯渇するといった話など、教科書で習う以外のことをいろいろ話していただいたので、地理にも興味をもつようになった。
花園に住んでいた頃の祖母
 花園に住んでいた頃の祖母は57〜58歳だったと思うが、針箱(針刺しとも言っていた)を側においてよく縫物をしていた。その頃子供は殆ど洋服を着るようになっていたが、正月の晴れ着は女の子は勿論のこと、男の子でも絣の着物に羽織を着る習慣がまだ残っていた。又、冬の寒い間は綿入れの着物を着せられたし、寝るときは寝巻きといってやはり着物を着るのが普通であった。祖母は私たち3人の孫のものと母の分まで新しく仕立てたり、汚れたものを洗い張りして仕立て直すといった按配だし、その他に繕い物もあるので、けっこう縫物の仕事があったのだと思う。
 洗い張りは立て掛けた2本の竿の間に針子張りをした反物にうすい糊をつけて天日で干すのである。

洗い張り
修学旅行
 その頃小学校の修学旅行は伊勢神宮参拝(お伊勢詣り)と決まっていた。姉が行った時はまだ関西線であったが、私はその年に開通した参宮急行(現在の近鉄大阪線)で行った。
 伊勢参宮は宇治山田駅で降り、外宮へは歩いて参拝して、あと内宮や二見ヶ浦へはチンチン電車で行くのであった。どの辺りか定かでないが、線路が道路と並行している所があった。その道路を進んで行く時に、電車が丁度右側通行していた。「通ろや 通る 右を通ろう 左を通れば車や人に そらそらどしんとつき当たる」とはやしたてた。
 丁度その少し前だったか講堂で、「道の歩き方」を巡査が来られて、教わったことがあった。講堂に旗を立てて「横断歩道」が作ってあったように思う。その時に「交通安全唱歌」も教わったのである。
        「通ろや 通る 右を通ろう
         左を通れば車や人に
         そらそらドシンとつき当たる」
先に書いたのは右側を走る電車を見て、いちびって歌ったものである。
通学往来
 姉と私は2つ違いであったので、「第六小学校」へ一緒に通ったのは私が4年生の1年間だけである。しかし、朝に花園駅まで一緒に歩いたり、時に電車に乗り遅れそうになって一緒に走ったりした記憶が残っている。上六駅からは一緒に行った記憶が余り残っていない。もちろん帰りは授業の終わる時間が違うので別々である。
 同じクラスに、岡林格(ただし)という子がいて、家が小阪であったので、帰りはよく一緒に帰った。彼はいつもお金持ちのような恰好をしていた。というのは、当時男の子は黒の分厚い布製の肩からぶら下げる鞄をかけていたが、彼は黒い皮のランドセルを背負っていた。また、私はゴム製の靴だったが、彼は黒の革靴を履いていたのである。
 帰りはよく道草をしながら帰った。それは5年生、6年生になってからも時々あったように思うが、細工谷町の方の友達の家まで行った。石ヶ辻町の日赤病院の前を通って上六駅の北側の方から、上六駅へ行ったことが多かった。
 5年生の初めだったと思うが、丸沢宏が転校して来た。丸沢のお父さんは旅順工科大学の先生で、海水から金を採る研究をしておられる学者だと言われたので、「すごく偉いんだなあ!」と思った記憶が残っている。
 その丸沢は額田に住んでいたので、5年からは3人で帰ることが多かった。昭和4年当時の大軌電車の大阪線は桜井までしか通じていなかったのが、昭和5年から6年にかけて、初瀬、榛原、名張と次々に延びていった。そして6年生の初め頃には宇治山田まで開通し、参宮急行電鉄=参急という名前になった。車両も奈良線の電車は殆ど木製であったが,セミスチールカーと呼ばれた大型の車両がはいり、パンタグラフ式ですごく格好よかった。
 帰りは午後の3時から遅くて4時頃に上六駅から電車に乗ることが殆どだった。平日はガランとしていて、乗客もまばらであった。だから電車もまばらであった。だから電車も、朝夕のラッシュ時には2両連結で走っているが、単車即ち一車両で走っていたりした。奈良線の電車の行き先は一番近いのが小阪行で次が瓢箪山行、生駒、それと西大寺行、奈良行、天理行というのがあった。今の大阪線の方は高安行から八木行、橿原神宮行などがあり、線路が延びるにつれて初瀬行とか榛原行といった電車が出来た。
 3人で帰るときは瓢箪山行に乗ったが生駒行や西大寺行きに乗ることの方が多かった。昭和5年だったか、上六駅が改良されて、手前に降車ホームが造られて、乗客は地下道から外へ出るようになった。従って乗り場のホームへは客を下した空の電車が入ってくるのである。当時はまだ自動ドアーの電車がボツボツ出来かけた頃で、ほとんどの電車の扉は乗降時は掛け金を外して手で開閉する手動式であった。したがって車掌は駅に止まる毎に飛び降りて前の方へ走っていって出入口を開け、乗り降りが終わると逐次閉めて最後に最後部の出入口から乗って紐を引張って発車の合図をしていた。しかし、2両連結や3両連結になると笛を吹いて合図をするので車掌が、乗る前に笛を鳴らし、電車が動き出してから飛び乗る光景がよく見られた。子供心にそれが非常に格好良く見えて、いわば飛び乗りに憧れていた。上六駅では空の電車がホームに入ってくる時に車掌が飛び降りたあと、ドアーが開いたままになっているので、そこをねらって飛び乗りのスリルを味わったものである。もう止まる寸前で別に危険など感じなかったし、当時はおうようで駅員に叱られることもなかった。ただ止まっている電車のブレーキのハンドルがつけ放しであったのを、前から触ってみたいと思っていたので、ハンドルに触ったことがあった。回すや否や「シューツ」とエアが抜ける大きな音がして慌てて元に戻したが音に気づいた駅長さんが出て来て、大目玉をくったことがあった。又当時は電車の前部の半円形に出張ったところに運転席があり、一番前に立っていると運転手の操作がよく分かり、操作がそんなに難しくないように思えて、自分でも運転できるような気がしたのであった。
  
電車
 丸沢と帰る時は一番前に乗って対抗して来る電車の「車両の番号あてっこ」をよくしたものである。その頃参宮線の方はグリーンの大型の電車が走るようになったが、奈良線はあずき色の前の丸い旧型の電車がほとんどであった。わずかに乗務員室が別になった201型に引き続きグリーン色の301型の新型電車が走るようになってきていた。
 この丸い電車のときは、前の窓ガラスを開けて、時に吹き込む風に少し息苦しさを感じることもあったが、あかずに電車の前方を眺めながら前から来る電車の番号を見落さないように注視しているのであった。
 前の丸い電車は1号から20番台までと、61号から70番台までの2つの型で61番台からの電車の方がスピードが出るのであった。他に200型だったと思うが前の角ばった電車が僅かながら走っていた。当てっこは電車の影も見えないときから、次は何番と言い合うので全くの「あてずっぽう」であるが、時々当って喜んだりした。上六から花園まで当時は16分間かかるのであったが、そんな遊びをしていると何時の間にか花園に着いていた。

奈良線の電車

パンタグラフ式の急行電車301型
 運転席の横に立って乗っている時に前の窓を開けっ放しにしておくとスピードが出るにつれて風が入り息苦しくなるほどであったが、前方の景色を毎日あきもせず眺めていたものである。
 昭和5年頃から奈良線にもパンタグラフ式の電車が走るようになった。しかし奈良行の急行にあてられていたので乗ることが出来なかった。
誕生日
 お祝いと言えば誕生日には赤飯で小さいながら焼鯛をつけてお祝いしてもらった。私たちの姉弟は弟が11月1日、私が11月20日、姉が11月24日と11月に誕生日が偏っていたので、11月になると誕生日が続いて嬉しかった。このお祝いのお膳には大根と人参を3杯酢につけたなますがつきものであった。
 母が勤めをもっていたので家事は祖母が取り仕切っていた。ご飯を炊くのはかまどで薪を燃やして炊くので、お釜はすすで真黒である。従って炊かれたご飯はお櫃に移され、そのお櫃が食卓の傍に置かれて、食べるときに銘々のお茶碗によそわれる。
 私たち姉弟3人が次々と「ご飯」といってお代りを求めるたびに祖母は黙々と給仕をしてくれた様子がまざまざと瞼に浮かんでくる。
ラグビー場のこと
 花園へ移った年にラグビー場の建設工事が行われていて、隣家の古川さんの親父さんはイカリ組という会社の監督さんとして仕事をしておられた。ラグビー場までは5〜6分で行けるので時折工事を見に行ったりした。確か昭和4年の秋に完成し、新しくラグビー場前という駅が花園と瓢箪山の間に出来た。この駅はホームが防腐剤を塗った板張りで、ラグビーのあるときだけ、電車の止まる臨時の駅であった。(今の東花園駅)
 日曜や正月の試合はよく見に行ったものである。何遍も見ていると、何時の間にかルールも競技方法も覚えてしまった。その頃はラグビーという球技はよく知られていなっかたので観客は余り多くなかった。
 この古川家には同い年の男の子があったが、学校も違ったので、時々遊んだ記憶がある位である。多分ラグビー場の完成と共に転宅されたのだと思う。
 
家での友達と遊びのこと
 よく遊んだ友達は反対隣の岡本の久ちゃんと弟と同い年の正(忠?ターチャン)、それに2軒おいて東の福崎家の兄妹であった。久君は同い年で、福崎君は一つ年上、その妹は2つ位年下だったかと思う。岡本君とは隣同士で一番よく遊んだ。
ラムネ遊び
 ここでも所謂ラムネ遊び(ビー玉遊び)がはやっていて、久ちゃんと福崎と自分の3人であてっこをすることが多かった。3人の中で私が一番うまかったので、あとの2人が組んで対抗してきて、悔しい思いをしたことがあった。その他にも地元の子らと稲を刈り取った後の田んぼや造成した広場で野球遊びをしたこと、田んぼのすきに上って遊んだこと、大軌電車の線路に釘をのせ電車が通った後ぺしゃんこになるのを面白がったりしていたこともあった。
 特に夢中になったのは「バイ」である。巻貝のような円錐形(底面の直径約2cm高さ1.5p)をした鉄のコマを太さ2o位の固い紐で、石炭箱の上に鍋状に作ったゴザの上で、相対する2人が同時に回し、ゴザからはじき落とされたら負けで、そのバイを取られるといった遊びである。

バイ遊び
 ラムネに2個玉といって大きな玉があったようにバイにも確か「テング」といった大きいバイがあって、重さも2倍余りあったので、普通のバイは簡単にはじき飛ばされた。しかし、小さくてもヤスリで削って、円を八角形位の角型にしておくと時に大きなバイでも勝てるので一生懸命ヤスリで磨いたものである。
 ある年に家の前の田んぼにトロッコが運ばれて来て土を掘りあげて、隣の田んぼの地上げを始めた。何しろスコップで掘ってはトロッコに積み、敷かれたレールの上を押して運んで行き、地上げする所まで行くと台車をひっくり返して土をおろすといった人力のみによる作業である。したがって長い日数かかってやっと一枚の田んぼの地上げが終わるといった按配であった。そのトロッコは作業員(その頃土方と呼んでいた)が帰る時にレールから外してあるトロッコを2〜3人の友達とレールの上に乗せて走らせ、走っているトロッコにとび乗って遊んだ。別に怪我する者もなく、今思えば楽しい遊びであった。
とりもちで蝉取り 指につばをつけて竿のさきを回して粘り気を出す
とりもち:モチノキという木の皮から取った粘っこい物質
暴風雨
 多分6年生の秋のことだと思うが、はげしい風雨が長い時間続いた。家のあちこちでポツリポツリと天井から雨漏りがし始めた。あわてて洗面器やバケツやタライに雑巾や手拭いものを入れて受けた。ガラス越しに外を見るとはげしい雨足が時折風に吹きつけられて水しぶきのようになって降っているのが見えた。
 当時は「はげしい風雨」といった表現で「台風」といった言葉は聞かなかった。夜中まで続き、私達の寝ている間、母や親父が南の戸に畳をたてかけて押さえていたと後で聞いた。
 その台風の時だったと思うが、恩智川の堤防が切れたとかいうことがあった。ラグビー場前の少し東で南から流れてきた恩智川が直角に東に折れ曲がって、瓢箪山の方へ流れ、少し行ったところで又北に向きをかえていたように思う。堤防が切れるといって騒いだのは確かその辺りのことだったように覚えている。よくは知らなかったが、溢れた水で田畑が一面に冠水していた。一方吹き募る風に南側の雨戸が吹き破られそうになり、内側に畳を立て雨戸を支えたこともあった。
春日湯
 家から50mほど西へ行ったところに春日湯という銭湯があった。私たちは風呂屋と呼んでいた。4年生までは母らと行くことが多かった。今でもはっきり覚えているが、4年生のとき、母親と風呂へ行く道すがら「赤ちゃんが生れるときはお腹を切るのん?」と母に聞いたら「そう」と母が答えたことがあった。
 5年生頃からは隣の家の久ちゃんや福崎君らと一緒に行くことが多くなった。その頃は湯桶は木で作られていた。2つの桶の間にタオルを挟んで二つくっつけると浮き輪のようになるので、それに乗っかって湯船の中で泳いだりしたことが思い出される。
 春日湯の手前を北へ入ってしばらく行ったところに春日神社があった。古い社があったが寂しいところであまり行くことはなかった。春日湯から少し行った所を東に入ったら、つまり自分の家の裏手にあたる所に、歯神さんと呼ぶこれも荒れ果てた小さな社があって、大きな木があり蝉取りなどに行ったことがあった。
 弟は1年から3年までの3年間を水走の方にあった英田小学校に通っていたから隣家のたぁちゃん(岡本忠)を始め地元に友達がいた。しかし、私は岡本の久ちゃんの遊び仲間と一緒に遊ぶぐらいで地元には殆ど友達はなかった。それでも休みの日などは少ない地元の友達と崖下の埋め立て地で野球をしたり、ラグビー場前の駅近くまで遊びに行ったこともあった。
初めて買ってもらった自転車
 2年生のときに友達の自転車を借りて乗って以来自転車が欲しかった。しかし値段が高い上に危ないということで買ってもらえなかった。しかしその時に親にせがんだりはしなかった。が欲しがっていることは母親もよく承知していたので6年生に進級した後だったと思うが、弟の通学している英田小学校のある水走の知人の方から中古の自転車を譲ってもらうことになった。多分日曜日だったと思うが、母らと連れ立って自転車を受け取りに行った。中古の大人用(26インチ)の自転車であるから大き過ぎて上にまたがって乗るのは無理だった。それで家まで約2kmの道を押したり、スケート乗りして持って帰ったように思っている。
 自分の自転車になったので、早く乗れるようになりたいと毎日練習をした。初めはスケート乗りから始め、つづいて「でっち乗り」の練習をした。でっち乗りとは自転車を少し傾けて、フレームから片足を反対側に入れてペダルを踏むのであるから、バランスをとるのが難しい。でも早く乗りたい一心で、何回も倒れたりしながらなんとか乗れるようになった。ある日電灯会社の散宿所(出張所のこと)へフィラメントの切れた電球の交換に行くのに、でっち乗りして勇んで行ったが、途中でバランスを失って倒れ、左側の崖下に転んでしまった。しかし幸いにも古い電球を右手でさし上げていたので、割らずに済み、無事新しい電球と交換してもらって使いの役目を果したことがあった。
 前にも記したが定額灯契約の家では16燭光が1灯、30燭光が1灯、40燭光が1灯といった具合に契約していて、その大きさの電球が貸し与えられていた。従って球が切れると散宿所へ「ハンコ」をもって行って交換してもらはなければならないのである。40燭光ぐらいの電灯だと結構明るく感じたが、今日の部屋の明るさには遠く及ばなかった。
 電灯のことを書いたついでに、その頃になるとスピーカーのついたラジオを見かけるようになったが、私の家には受話器を耳にあてて聞く鉱石ラジオしかなかった。そのラジオは電球をねじ込んだソケットの所で電球の口金にアンテナ線の先のクリップを挟むようになっていた。つまり電灯線がアンテナ線の役をしていたのである。浪花節の好きな祖母が夜、縫物や繕いものをしながら受話器をあてて聞き入っていた姿が思い出される。
父のこと
 昭和4年の終わり頃だっただろうか、刀根山病院に入院していた父が退院してきた。しかし、横になっている時の方が多く、めったに遊んでもらったりすることはなかった。
 それでも時には裏の畑の手入れを一緒にしたり、鶏の世話を一緒にした憶えもある。春先のことだったと思うが、飼っていたひな鳥を前の草原で草を食べさせた後抱きかかえてつれて帰る途中崖の所で滑ったはずみに雛を踏んで死なせてしまったことがあった。叱られはしなかったが可哀想で今でもその時の光景を思い出す。
 菜っ葉やハコベのような草を刻み、米糠を混ぜて少し水を入れて練った餌をときどき作った。秋には田んぼにいなごを取りに行き、それを湯に通し、日干しにして乾かしたものをやったこともあったが、花園駅前の店の仁木さんという方が魚のアラをたいたものを配達してくれていた。
 この頃に、鍬で畝を作ったり、茄子や胡瓜を植えて細かい竹で支えを作ったり、縄やワラで手をつくったりすることを覚えた。トマトの実がだんだん膨らんで赤くなるのが楽しみであった。そしてあの特有の匂いのあるトマトの味が懐かしい。
 弟は地元の英田小学校に入学して3年生まで過ごしている。私は大阪まで通学していたので家に帰るのは多分早くて4時頃、遅いときは夕方になっていた。したがって弟は父と話したり遊ぶこともあったと思うが、私は殆どそんな記憶がない。
 4年生のときだっただろうか、前の水田の一部が地上げされ、そこに映画館が出来た。ある日父が私に映画(活動写真)を見てこいと言って小遣いをくれたことがあった。
 もう一つ強く印象に残っているのは、おかきを食べた後で父の傍にいたとき、「くさいからあっちへ行け」と怒鳴られたことがあった。そのときは恐かった思いだけだったが、多分気分がすぐれず、気に障ったのだろう。
 何時のことだったか思い出せないが、父が母に「西瓜が食べたい」と言ったのだろう、母が私に上六の大軌百貨店の地下の食料品売場で西瓜を買ってくるように言った。まだ夏になっていないのに今頃西瓜を売っているのだろうかと心配しながら行ってみると、売場に並べてあったので嬉しかったことを思い出す。
 その父が昭和5年9月に亡くなった。亡くなった夜のことである。ふと目を覚ますと、何か騒々しい感じで変だったので、身体を起こすと祖母が父が亡くなったと言ってくれた。悲しくなって泣いた。姉や弟も起きた。
 上本町5丁目の田所さん(父の友人)の家に父の死を連絡しに行った。丁度東平小学校の東側の道を隔てた向かい側あたりであった。はじめ娘さんが出てこられ、つづいて田所さんが出てこられ、用件を伝えた。うなずくようにして聞いておられた。
 葬儀はあべの斎場で行われた。しかし、余りにも大きなショックだったためか葬式の日の光景も今は殆ど覚えていない。ショックが大きかったらもっと覚えていても当然なのだが。ただ、あべの斎場で姉弟3人がしょぼんとしていた光景は頭に残っている。確かその翌日にお骨あげに行ったように思うのだが。
 しかしお葬式が済ませて学校へ行ったとき、教室で担任の浜先生が友達に「北村のお父さんが亡くなられた」と話して下さったとき、皆の視線が私に集まった時の教室の様子は今もはっきり瞼に浮かぶ。父は遺骨を高野山に葬るように言い残していたようだ。母はその遺言にそって高野山に納骨にいった。
(写真:左から筆者和夫13歳・母悦37歳・弟修10歳・姉純子15歳)

昭和6年8月6日高野山にて
第四章 西今川町へ移ってから(高1・高2)
昭和7年大阪市住吉区西今川町6丁目へ
 昭和7年2月3日の年越の日に、私は大阪市住吉区西今川6丁目先へ引越した。悪い方位の方へ引越しをすると祟りがあって、不幸になるという迷信を信じていた母は宿替えのたびに堺の方違神社にお参りして災難にあわない様祈祷してもらっていた。その上に年越しに宿替えすると方当りしないという縁起をかついで、年越の日に宿替えをしたのであった。花園から大阪市内へ戻ることになったのは、父の友人の杉本竹治良氏が建てられる借家に入れてもらうことになったからである。しかしその借家は6月頃でないとでき上がらないため、私達の学校のこともあって、出来上るまですぐ近くの借家に入って、出来上がるのを待った。
西今川町の仮借家
 私は6年生の卒業式までの約1ヶ月半そこから天王寺第六小学校に通った。南海電車の平野線で阿部野橋に行き、天王寺公園の前から上本町8丁目まで市電に乗るのである。姉は生野高女に通っており、弟は女子師範の附属小学校3年に編入してもらった。確かその時に世話になったのが藤沢という先生だったと記憶しているが、母がどんな伝で頼んだのかはよく分からないが、強いコネだったのだと思っている。
 仮住まいの家は絵の様な平屋であったが道路に面して木戸のある塀がめぐらされた感じのいい家であった。私の家は道路の角にあり、隣の家と2軒続きで西隣の家は矢北という家で、小学校1年生の男の子と3歳位の女の子がいた。そのお父さんは耳たぶがひときわ大きい方で、お母さんは小柄な方であった。少し年齢が開いていたので遊ぶことはなかったが、よくその女の子が門の前の道にかがみこんで遊んでいた可憐な姿が目に残っている。 

家の前で遊ぶ少女
昭和7年天王寺師範附属小学校高等科に入学
 私は4月には天王寺師範の附属小学校の高等科に入学した。地元には遊ぶ友達は全然なかった。したがって家では弟と遊ぶことが多く、室内では将棋を使ってのいろいろな遊びをすることが多かった。
 師範の一部へ入学するには附属の高等科に入ると有利であったため、附属へ入るのに厳しい競争がある。私の場合も10倍余りの競争であった。
 その附属小学校は天王寺区河掘町にあった。阿部野橋から東へ7〜8分歩いた所である。通学は南海電車の平野線の中野から天王寺駅前行の電車で天王寺駅前まで乗り、そこから歩くのである。天王寺駅前というのは、阿部野橋の北詰すなわち天王寺公園前のところであった。また平野線というのは今はなくなったが、阪堺線(今は南海電車と別会社の阪堺電気軌道線)の恵美須町が起点で、今池で阪堺線と分岐し、上町線のあべの斎場前を経て平野本町の終点まで、今の地下鉄の谷町線のルートを走っていた軌道線である。
 天王寺駅前へはあべの斎場交差点で、住吉公園前と天王寺駅前を結ぶ上町線に乗り入れていたものである。この天王寺駅前平野間の電車は明治時代の製造のチンチン電車で手動式のブレーキの大きなハンドルが運転席の右側にあり、運転手がブレーキをかけるときは、その大きなハンドルをダイナミックに操作していた。まさに職人芸というべきものであった。110番台や恵美須町平野間の電車は大型のボギー車で110型、150型に加速性能の良い新型の160型や170型が走り、ラッシュ時には新型車は2両連結で走るようになった。昭和12年頃から乗降にドアーのない旧型車が何台かドアー付きに改造されていった。乗降口にチェーンを張るだけの旧型車は逐次減っていった。

南海平野線の電車

新型電車
新築の借家
 多分6月の終りだったかと思うが、杉本さんの借家が完成したので、そこに移った。仮住まいの家から20m位しか離れていない。いわば、ほんの目と鼻の先の所である。建てられた大工さんは北本さんといった。私は学校から帰ると殆ど毎日のように仕事をしておられるのを見に行っていて、出来上がるのが待遠しかった。

西今川町の新築借家
 後に日曜大工が趣味になったのもこの影響が大きいと思う。その家の裏には今川という川が流れていて、結構清流であったので、鮒などが沢山棲んでいた。又水の量もかなりあったので、ゴムの動力でスクリューが回転する船を作り走らせた。とくにその舟に鉛のおもりをいろいろ加減してつけ、潜水させたりした。丁度家の横の道に橋がかかっていて、向こう岸の堤に渡れた。その堤は俗にうるし堤と呼ばれ、大きなハゼの木が植わっていて秋に真赤に紅葉して美しかった。そのハゼの木の小枝に蛙が突き刺さっているのを見たことがある。確か祖母に「もずのいけにえ」というのだと教えてもらった。
 今は廃川となってしまい、代りにその川筋は散策公園にされ古い川が人工川として残されている。家の横にかかっていた橋は、今六橋と名付けられ欄干のあるしょうしゃな所になっている。 
現在の大阪市東住吉区西今川周辺
附属小学校のこと
 新築に移る頃は進学した附属小学校の生活にも慣れ、電車通学が楽しかった。クラスメートは30名で殆どが大阪市内のあちこちから市電や城東線(今の環状線)で通っていた。
 あべの橋から学校までは市電の玉造線沿いに所謂電車道を歩いた。たまに市電やバスが通る位で、今日では想像出来ない位閑散としていた。
 附属小学校は天王寺師範学校の校地の北西端にあって、本校と同じ明治時代に建てられた木造校舎であった。高等科の1年・2年とも担任は奥野朝治郎先生で、体育のお得意な先生で山野跋渉会という名前で、日曜日に六甲山や金剛山、生駒山、葛城山、信貴山、飯盛山、北摂のポンポン山、などへ連れていただいた。六甲山へ登るのは阪急の六甲道あたりから歩いて登るのだからかなり険しい坂道であった。
 放課後は時々本校の校庭の端にある砂場で幅跳びをしたり鉄棒にぶら下がったりして遊んで帰った。何しろ尋常科は各学年とも男女各40人のクラスが一組づつ、高等科は1・2年の男子組みは各30名、女子は1・2年合併組みで30名。全校で600名足らずの小規模な学校であった。そのため運動会の行事も大きな師範学校の運動場の一部を区切ってやっていた。附属時代の思い出としては、大和の談山神社へ行った遠足がある。近鉄の桜井駅からかなりの道のりを、しかもだらだら坂を上ってしんどかったことである。 
百貨店の思い出
 昨今は大型のスーパーがいたるところに出来て、デパートのかげもうすくなっている。しかし、しかし、昭和初期から10年代の前半までは百貨店は何でも売っている華やかな大きな店で、親に連れてもらうことが大変嬉しかった。私のおぼえている三越百貨店やまだ長堀橋にあった高島屋百貨店では入口で靴に大きなカバーをかぶせられて、それをはいて店内を歩かねばならないのが嫌であった。中野に住むようになった頃に高島屋がナンバに移転したように思っている。今の松坂屋は天満橋にあるが、それまでは日本橋3丁目にあった。高島屋が難波のターミナルに進出したため、松坂屋は地の利が悪くなり、阪堺線の終点の恵美須町から青バスの無料バスをサービスしたこともあった。中野から天王寺駅前すなわちアベノ橋へ出るのも、恵美須町へ行くのも、今池から萩之茶屋へ出て、南海電車の本線に乗り換えて難波に出ても、3区=11銭であったので、大変便利であった。難波から戎橋筋、心斎橋筋の商店街を通り、大丸やそごう百貨店へも行けたわけである。しかし、その頃は貧しい生活をしていたので、そうさいさい百貨店へ買物に行くこともなく、ましてこどもが百貨店へ買物に行くことなどないので、行ってもただ親の買物について廻っているだけであるから、しばらくすれば退屈になってしまって、楽しいところではなかった。
高1・高2の頃の家庭生活でのいろいろ
 附属小学校の高等科へ入ったのは、師範学校の本科一部へ入るためである。その入試はまた難関で十数倍の競争であるから、母はあまり勉強しない私によく「勉強せよ」[勉強せよ」といったものである。それまで小さな坐机しかなかったので、母は私たち3人の共用机として椅子式の勉強机を買ってくれた。多分勉強してくれることを期待していたのだろう。3人が一緒に勉強すると狭かったが適当に代わり合って使っていたように思う。
 昨今のように参考書があるわけでなし、教科書を読み、要点をまとめて暗記するとか、学校で習った数学の問題をもう一度自分で解いてみるといった勉強であるから、そんなにすることはなかったのである。
 あるとき綴り方の宿題があったので、「蜘蛛が巣を作る様子」を書いて、その用紙を机の上にほうり出していた。下で遊んでから2階へ上ると、母がそれを手にして読んでいた。私は盗み見されたのに腹が立って、ひったくって破り捨てた時、母がじっと私を見つめ、悲しそうな顔つきで「上手に書いてあると思ってたのに」と言ったことがあった。作文が苦手で、劣等感をもっていたので、人に読まれることへの恥かしさと黙って読まれたことに対する反発だったと思う。
模型飛行機
 確か高2になった春休み頃だったか、模型飛行機を作って家の前の道で飛ばしたことがある。竹ひごとアルミニューム管で絵のような四角い胴体の飛行機をつくって、路上をゴム動力で滑走させて飛ばせた。地上僅か30〜40cmの位の高さまでしか浮上しなかったが、距離も20cmそこそこしか飛ばなかった。飛行機の飛ぶ原理など何も知らずに買ってきた。設計図を頼りに作っただけで、ヒゴも割りに太く、重量も結構重かったので、本物の飛行機のように地上から滑走させて飛ぶものと思っていたが、数十cmの高さに上るだけで、すぐに着地してしまった。
 結局手で持って飛ばして、やっと20mほど飛ぶ位の性能で期待外れであった。

自作の模型飛行機
つづく
北村和夫の世界一周船の旅
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