阪本桃水書「百人一首の世界」Web書道展  トップ   百人一首  桃水作品  
寸松庵色紙百人一首挿絵  1〜 11〜 21〜 30〜 40〜 挿絵・書と私  
挿絵
書 と 私
阪本桃水
 終戦を境として、生れ故郷の大阪から松山へ居を移して、40年の歳月が過ぎました。郷里は懐かしいものです。未だ小学生になった頃ですが、親戚が北区の天満にあったので、時々祖母に連れられて天神様にお詣りしました。祖母が「天神様に字が上手になりますようにとお願いすると字が上手になるよ。」といったので、其の度によく拝んだものです。父も母も小学校の教師で、私は割りに厳格に育てられ、当時の書き方もよく家で稽古させられました。私のうしろから母は、筆を持つ私の手を握って「ノメクタ」とか「フラソツ」などと書いて教えてくれました。そしていつの間にか私は字が好きになっていたのです。
 然し一家の主婦として家庭を持った頃は、戦時中で字を書くような世相ではなく、筆も紙も姿を隠してしまいました。生活に追われる毎日で、趣味は編物と洋裁となり、4人の子供の教育に専念していた次第です。やっと子育てが終り何とか自由な時間が持てるようになった頃は、もうすっかりおばさんになっていました。
 丁度その時、お隣の奥様から家に書道の先生がこられるからしてみないかと誘われて、私は一も二もなくやりたいという欲望にかられました。夜の外出を好まぬ主人を説き伏せて、7時から9時迄の許可を得て、久し振りに筆を持ち1週間に1度のお稽古がたのしみとなり、洗心書道会の一員となりました。昭和42年1月の入会です。毎月の昇級と昇段試験で励み河野如風先生の直弟子にして頂いたのに、4年後に主人が脳血栓となり、自然私が家業を息子と共にする事となり、再び書とは中断という形になりました。けれど書きたいという意欲は日本書道会のペン字に突入し、暇を見つけて免許獲得に挑戦しました。その頃洗心会会長の逝去に会いましたが幸いにも井茂先生の門下に入れて頂き通信教育を受けるようになりました。漢字から「かな」へ転換致しました。
 お手本が送られてきただけです。半切と四半切と半紙2枚を毎月わからぬまま添削を受けました。添削のことばもわからない時がありました。1年目に初めて先生にお会いしてお話しを伺い、古筆も関戸から始め一東書道会にも入会させて頂きました。師弟の関係は直接目で見て耳で聞いて体得することが必要です。時々上神して先輩の筆づかいも見せて頂きたいと念願しております。回り道をしながら今6年目を迎えました。嬉しいことに一昨年から松山でも錬成会に井茂先生をお迎えして親しくお話や実技を見せて頂くようになり、今年も7月を待遠しく思っています。年毎に出席者もふえ、かな同好者も其の日を待ち構えております。
 自運が出来ねば一人前にならぬとはわかっていてもそこへ辿りつくには大変な努力が必要です。もう10年若ければと痛感しています。
 1ヶ月許り前から主人が再度入院し、私はその付添いに毎日病人と同じく病院生活をして筆硯とは暫くご無沙汰をしております。字が書けないけれど本なら読めると考え、幸い以前に購入していた、深山龍洞先生の「かな」を最初からゆっくりとひまをかけて読んでいます。今迄に読んだ時と違って内容が理解出来ます。私の行く道はこれからです。家へ帰ったら、又臨書(一)からやり直し臨書(二)(三)へと努力したいと思います。
 老いは速度をはやめてやってきます。1日1日が早く、地球の時間が短くなった感が致します。遠まわりした勉強を基礎にして老骨に鞭うって、生命のある限り、好きな道を元気に合理的に邁進し、悔いのない老後の生活を送りたいと考えています。四国の片隅で書と共に進んでいる仲間の一人が、70年の歴史を振り返ってお見苦しい手記となりましたことをお許し下さい。
茅海第16号(1987年12月)より
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